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中等科・高等科校長 烏田 信二
2024年度 2 学期始業式
皆さん、おはようございます。
今日からいよいよ 2 学期が始まります。皆さんは、夏休みも充実した日々を過ごされたことと思います。
7 月 20 日(土)には戦禍の中にあるウクライナの人のために、有志の十数名が暑くてオープンスクールも開催されている日に、時間を見つけて、JR高円寺駅前での街頭募金呼びかけに参加しました。高円寺の地元の方と共に協力して活動できたこと、とても喜ばしいことでした。
7 月末には、長野県上田市の光塩山荘で中 1 と高 1 の林間学校が実施できました。山荘にて自然に親しみ、お互いの交流を深め成長して行く皆さんの姿を目の当たりにして、実施できたことに大きな喜びを感じました。
また、8 月 9 日から 11 日間、オーストラリア短期研修を実施できました。31 名の方がオーストラリアのブリスベンで多くの良い出会いに恵まれ、実りある時間を過ごして無事に帰ってきたことも喜ばしいことです。8 月 23 日にはここメルセダリアンホールにて杉並区小中学生英語スピーチコンテストが開催されました。本校からは 3 名の中等科生が出場しましたし、運営ボランティアとして 20 名近くの方が喜々として活躍し、そのホスピタリティーあふれる姿に目頭が熱くなりました。7 月も 8 月も補習に自習室での学習、部活動が活発に行われていました。文化部は次の公演に向けて計画的に練習と準備を進め、運動部は関東地区カトリック校女子球技大会や第 9 支部大会、杉並区の大会などへの出場に向けて練習を積み重ね、それぞれ得るものがあったことと思います。夏休み中には、私たちが今いるこのメルセダリアンホールの空調更新工事、そして5 号館 1 階のラーニング・コモンズの改装工事も行われました。ラーニング・コモンズについては14 日(土)に改装記念イベントをしようと、係の方々が協力して企画・準備を進めていらっしゃいます。楽しみにしていてください。
2 学期を始めるにあたり、もう一度今年度の目標である「他者に向かって開く」(他者とのかかわり)について思い起こしてみましょう。最終目標であるアガペーすなわち神の愛、無償の愛の実現に向けて、改めて考えてみたいと思います。
まずは、本校 75 周年、創立者マドレ・マルガリタ列福記念の年、2006 年に作成された冊子「マドレが教えてくださったこと」に掲載されているメルセス会のシスター渡邊多賀子が書かれたお話を紹介したいと思います。時代は、昭和 6 年、西暦 1931 年まで遡ります。光塩高等女学校の落成の日です。創立者マドレ・マルガリタが来日なさいました。その時、1 回生 27 名がその場にいました。代表で挨拶をした阿武とし子さんは、即席で教え込まれたスペイン語で、意味も分からぬまま唯夢中でご挨拶なさいました。異国の 12 歳の少女の思いがけないスペイン語の挨拶に驚かれたのか、マドレはつかつかと近寄って突然ギューと胸に抱きしめられました。それはとし子さんにとって、無条件に受け入れられ、大らかに包み込まれる温かな驚きと感動の体験でした。このたった一度の体験がとし子さんをとりこにしてしまいました。
とし子さんは、ご結婚後、軍医のご主人様に伴われて、北朝鮮に渡られ、そこで終戦を迎えられました。終戦の北朝鮮で、ご主人様はソ連の捕虜となり、とし子さんも朝鮮の警察に捕らえられ、零下何十度の地下牢に投獄されました。このように数々の死の危険に直面する度に、とし子さんは、12 歳の時に出会ったマドレとの体験を思い出し、希望をもって祈りつつ過ごされました。その結果、生き永らえ、帰国できました。ご主人様の消息が分からずただ無事を祈る日々を過ごされました。すると、とし子さんが帰国した翌年の復活祭の朝に、突然帰国なさり、お二人で復活祭のミサに与り、共に感謝をささげたそうです。とし子さんのマドレとの出会いはアガペーを感じることのできた実体験だったのではないかと私は思います。
とし子さんのご主人様は、ソ連の捕虜となったというお話をしました。それでは、捕虜の生活はどのようなものであったのか、アガペーについて考えると共にもう少し探究してみたいと思います。
辺見じゅん著『収容所から来た遺書』(文春文庫)という本がシベリア抑留の収容所での様子を伝えてくれています。これは山本幡男さんという方の実話に基づく本です。2022 年の 12 月には『ラーゲリより愛を込めて』という映画としても公開されました。先ほどの阿武とし子さんのお話の中でもありましたように、1945 年終戦目前に日本はソ連から宣戦布告され、ソ連によって朝鮮半島や満州にいた多くの日本人が捕虜とされ、スヴェルドロフスク収容所に連行されました。冬には零下数十度にもなる過酷なシベリアで強制労働に従事します。ロシア語が得意な山本さんは、満州鉄道調査部での北方調査やハルビン特務機関でソ連の新聞や雑誌の翻訳を行っていたことを、スパイ行為と見なされ、戦犯としてソ連の国内法により重労働 20 年の刑を下されていました。収容所(ラーゲリ)の中で、捕虜となった人たちは、食べ物も少なく、重労働でだんだん心が荒んでいきますが、山本さんはダモイ(帰国)の日は必ず来ると希望をもって周りの人たちを励まします。帰国への希望を呼び戻すことを目的に山本さんは万葉集や仏教など、日本文化の勉強会をソ連兵に見つからないように始めました。こうして、多くの人が自分を取り戻して生きる希望を持つことができました。
山本さんは、その後、1949 年にハバロフスクの収容所に移されますが、そこで、同じ日本人から強烈な吊るし上げに遭った上、1950 年に捕虜となった人たちの帰国が始まったものの、戦犯とされていた山本さんたちは帰国をゆるされませんでした。そのため、希望を失いかけてしまいました。しかし、山本さんはもう一度、自分を奮い立たせて希望を抱き続けようとしました。具体的には、日本や日本語を忘れないように以前から好んでいた短歌や俳句を詠うようになりました。そして、仲間を誘ってアムール句会と名付けた集まりを始めます。その他、壁新聞作りや月に 1、2 回ゆるされた映画鑑賞会での同時通訳も行いました。1951 年には演劇好きの人たちを集めて劇団をつくって、ソ連側を刺激しないように気をつけつつ独特のユニークな脚本を書いて上演し、収容所の人々を元気づけました。収容所では、わずかな食べ物だけで、朝から夕方まで木を伐って運んだり、建物を立てたりの重労働をして疲れきった身体でこれらの活動をしていました。山本さんは、もともと体が丈夫ではない上に、劣悪な環境で重労働に従事し、与えられる食べ物もわずかで栄養状態も良くないため、1953 年喉の痛みが激しくなってきて収容所内の病院に入院しましたが、病状は悪化していくばかりでした。仲間たちがソ連当局に請願書を提出してくれて、1954 年 2 月にようやく設備の整ったハバロフスク市内の中央病院に転院しますが、診断は喉頭癌性肉腫、末期で手遅れ。翌日には収容所に戻されてしまいます。山本さんは、病状が絶望的になった 7 月頃に仲間たちに勧められ、母、妻、子どもたちに遺書を書きました。そして、8 月 25 日に 45 歳で息を引き取りました。残された仲間たちは、生きて日本に帰って、山本さんの家族にその遺書を伝えるためにその遺書を書き写しました。実は、日本語を書き残すことは収容所においてはスパイ行為と見なされ禁止されていました。ですから、仲間たちは、ソ連兵の監視ばかりでなく、日本人の密告者にも警戒しなければなりませんでした。抜き打ちの荷物検査も度々ありました。そこで、本文と母宛、妻宛、子どもたち宛を分担して暗記することにしました。栄養状態も悪く朦朧とする中での暗記はどれほど大変だったことでしょう。そして、1956 年 12 月、日ソ共同宣言発効に伴い国交が回復して、生き残った仲間たちは、収容所から解放されてダモイ(帰国)の日を迎えることができました。山本さんの家族にそれぞれが暗記した遺書を書き写しなおして伝えに行きました。山本さんは、多くの人が憎しみの気持ちで一杯、人を陥れてでも自分が生き残ろうとするような環境でも、常に周りの人を励まし、生きる喜びと希望を探し働きかけました。それに対して、周りの人たちが心動かされ、希望を持つようになり、山本さんの想い、すなわち遺書を大切に家族に届けたいと願うようになったのだと思います。本校の 1 回生の阿武とし子さんとマドレ・マルガリタの場合も、山本さんと収容所の仲間たちの場合も、アガペーは、関わりの中で生まれ、育まれて、築き上げられていくものだと言えます。私たちもそのようなかかわりを共に育んで参りましょう。
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